ファイアパンチ、チェーンソーマンの藤本タツキさんによる、143ページに及ぶ、中編読み切り漫画が公開され、SNS中心に話題になっており、自分も読んでみました。
素晴らしい作品でした。
……が、なぜか僕のなかには一部シコリが残りました。
ほとんどの物作りを志す者なら、一度は経験するであろう、「俺って世界一すごいやつなのでは」 という黒歴史的カンチガイ、本物の才能との出会い、挫折、再起。
ぬるいベタベタな友情ではなく、相手にとってはなんでもないようなことが、しかし当人の人生にとって、かけがえのないものとなる。素敵な、どこか切ない気持ちとなる交流が淡々と描かれていきます。
タイトルにあるとおり、風景と背中だけの、セリフもないコマが描かれ、二人の間に流れた年月が積み重なっていきます。
それが突然、ぶち壊され、この漫画の描きたかったことがわかります。
喪に服した藤野が京本の部屋の扉の前に立ったとき、扉の向こう側と藤本側には別の時間軸が流れ、もしかしたらあったかもしれない時間軸が語られます。この演出は、とても漫画的で、美しい流れでした。
人の人生は、このように、ちょっとしたボタンの掛け違いによって、想像もしていなかったような出来事がおこっていく。
この漫画は、あの事件への慰めであり、漫画家藤本タツキの決意表明のようなものと思いました。クリエイターさんが共感して讃を送ったのもその部分ではないでしょうか。
で、僕が、この漫画のどこに文句を言いたいかというと、それは突然現れた通り魔についてです。
彼が舞台装置のように、それこそ中世の劇のデウスエクスマキナのごとく(当時の劇では、シナリオがシッチャカメッチャカになり、収拾つかなくなると突然神様が現れ、問題解決して去っていく)あまりにも突然現れた印象を感じたからです。
もちろん、プロット上、彼が突然現れることは、あの事件と照らし合わせても、不自然ではないです。
ですが、僕は想像せずにはいられません。もしかすると、彼も藤野と京本の関係のように、他人にとっては重要ではないけど、本人にとっては重大な事件によって、このような凶行にでたのではないか。そのバックボーンも描かれず、道具のように設定されたキャラクターのように感じてしまったのです。
あの事件が発生したとき、一部の人たちが、ひやりとするような言葉で、犯人のことを糾弾していたことを思い出します。やるかやらないかだけで、両者が同じサイドの人種に思えました。もしかするとボタンをかけ違えていたら、僕たちがそうなっていたのかもしれないと思ったのです。
この漫画では、悲劇に対して残されたものたちは、どう生きていくか。その答えは出してくれていますが、事件がなぜ起こったか、二度とこのような悲劇、犯人を生み出さないようにするには……そういう思考が抜けているような気がします。
そうゆう考えを生むために描いたのかもしれませんし、この後のことはこれからやるから、『ルックバック』なのかもしれませんけど。