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はて? 果てしなきスカスカスカーレットの読み解き方

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守を知りたい。

『時をかける少女』、『サマーウォーズ』で有名な細田守監督最新作の『果てしなきスカーレット』を観てきた。

昨日、当てこすっちゃったんで。

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前作の竜とそばかすの姫で、緻密な世界観やストーリーを楽しむ作品を作れる人ではない、と思っていたので、世間の悪評のわりに楽しめた。

シーンによっては、もう一度観たいと思える見応えのある場面もありましたよ。まあ、例のミュージカルシーンは苦笑してしまいましたが。

 

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特に群衆表現と、スカーレットとクローディアスの対決シーンの顔の表現は見応えあったな。

 


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ネタバレ感想を一通り踏んでしまっていたので、「アンチ細田守として、うぇへっへ! めちゃくちゃに叩くぞぉ〜」という戦闘態勢には入っていなかった。

それがむしろ良かったのかもしれない。

ただ観たまま評価するなら、いくらでも粗は拾える。

資源の循環しない死者の国、設定が穴だらけ。

理想論を語りながら自己矛盾に気づきもしないキャラクターたち。

奇天烈な演出。

ご都合主義で畳み込まれる終幕……。

評判どおり、酷い映画だ。

 

ところが、この「観たまんま」をいったん脇に置いて、細田守版『君たちはどう生きるか』だと捉えてみると、景色が変わる。

死者の国は、細田守自身の内面世界だ。あれは堕ちたアニメーターたちの地層なんだと思う。

 

世界観がおかしいのも当然だ。

彼らは世界に根ざして生きる人々ではないんだ。

時代も文化も言語もバラバラの“全人類”が集まる世界といいながら、現代人は聖だけ。言葉は通じるし、海外の歌が流れるし、農耕していないのに新鮮すぎるトルティーヤは出てくるし。

死者の世界で復讐劇という「もう死んでるのに意味がわからん」状態で、虚無になる、という設定だって、要は「目標を諦め、アニメーターをやめる」の暗喩として読むと自然になる。

 

“見果てぬ場所”は、アニメ監督という頂点だ。

そこに向かって全員が必死にしがみついている。

行けば報われる? 幸せになれる? その保証がどこにもないまま。

 

もし見果てぬ場所が本当に天国のような場所なら、全員で向かえばいいのに、行けるのはわずかな者だけ。だから、あの世界は常に張りつめている。

クローディアスが妻を「待つ」のも、愛ではなく“片腕を求める監督”の姿だ。

群衆やスカーレットを押しのけようとするのも、自分より先に誰かが監督という頂点に立つのが我慢ならないからだ。

「俺が監督やるから、ついてこい!」という野心の化身だ。

 

そして唯一の“見果てぬ場所の住人”――剣まみれで空の海の向こうにいる竜。

あれはアニメーターの頂点の景色を知る者ーー言うなれば、宮崎駿だ。

ラスボスのような姿は「到達点としての存在」であり、雷は“ご都合主義的な懲罰”ではなく、宮崎駿の無慈悲な首切り宣言だ。

「オラァ、才能ねーんだよ。何年やってんだよ!」

そういう、業界の「天の声」だ。

死者の国で灰になるアニメーターたちは、報われず、抜け出せず、死んでもなお苦しみ続ける。

この上なく地獄めいている。

 

そしてスカーレットは細田守自身。

殺された父=自分の作品。

自画像を破られるシーンは、それそのままの比喩だ。

世間に叩かれすぎて、虚無に誘われ、「復讐=再起」だけを燃料に立ち上がる。

押しのけてでも頂点を目指すという決意の権化だ。

 

一方の聖もまた細田守だ。

荒んだアニメ業界から抜け出した未来の彼。

頂点なんか目指さず、自由な創作を取り戻した理想の自分だ。

だから悩みが吹き飛び、矛盾した行動すら笑ってすませる。

その支離滅裂さは、細田守の脚本の揺らぎそのものだ。

救命士になった理由が「ぼろ雑巾みたいに扱われるから」という謎理由は、監督自身の仕事に対する強がりにも聞こえてしまう。

 

話題沸騰の奇天烈なダンスシーン。

住む時代が違えば、別の可能性もあったかもしれない、という妄想は、アニメーターという職業を選ばなければ、もっと楽に生きれたかもしれない、という想像だ。

そんな可能性に至りつつも、スカーレットは、アニメーターという修羅の道を往く。

後の時代(後輩アニメーターたち)の人々のため、自分の(偉大な)足跡を残すために。

 

見果てぬ場所へ向かう道で、仲間も群衆も次々といなくなるのは当然だ。

彼の作品には最後の対決の瞬間は「誰かに頼る」「助力を求める」要素がほとんど登場しない。

『竜とそばかすの姫』も同じで、いつだって主人公たちは、最終的にたった一人で決断し、対峙し、突破しようとする。

細田守自身の生き方と制作姿勢そのままだ。

 

父を殺されて復讐のため訓練したシーンでも、スカーレットには、ずっと側にいてくれた家来がいたようだ。

だけど、彼らは聖(聖は、他者ではなく、彼は監督自身の分身だ)のように、主人を窘めたりしたんだろうか? 復讐はなにも産みませんよ、と。 

細田守監督も、本作の制作体制において、そんな自分に意見してくれる仲間がいたんだろうか? イエスマンだらけじゃないのかなぁ。

自分の内なる声にだけ耳を傾け、突っ走った結果が、この作品のように思えてならない。

 

この映画は出来が良いとは言いがたい。

結局、細田守作品を細田守そのものとして観るのがいちばん自然なのだろう。

矛盾も破綻も、ご都合も、彼自身の混乱と葛藤のかたちだ。

そこに他者の諫言の痕跡はない。

スクリーンに映っていたのは「死者の国」ではなく、自分の背中を追い続けて壊れていった無数のアニメーターたちの影と、その頂点で迷い続ける監督自身の姿だったのかもしれない。

 

現世に戻ったスカーレットは、朗々と理想論を語り、監督自らが描いた虚構の民から歓声を持って迎えられる。

あまりにも独りよがりなラストシーンは、裸の王様としての監督自身の姿に思えてならなかった。

 

※あまりにも文章がとっちらかり、支離滅裂になったので、AIを使用してまとめました。