「ノットイコール(≠)」は、数学記号の一種であり、数式や文字式において「等しくない」ことを表します。
ピアノコンクールに挑む4人のコンテスタントを描いた小説、蜜蜂と遠雷が面白くて、映画化されたので見に行きました。
そもそも映画化不可能と言われていた作品だったみたいなんですけど、観てみた感想は、同じタイトルの別物でしたね。
小説は、上下巻の非常に長い作品なので、約2時間の映画にまとめるには、端折らなければいけないエピソードや曲、設定、登場人物がいることには納得できるんですけど……そこかぁ……って感じ。
自分が小説版で良いと感じた部分がほぼ無くて、凄くがっかりしてしまいました。
田舎の地元の映画館だったので、マジで僕一人の貸し切りでしたので、贅沢な気分で観れたのは良かったし、ひと目も気にせず泣けたんで良かったんですけど。そうそう、感動しちゃうシーンはありますよ。悪い映画では無いんですけど、蜜蜂と遠雷か、と言われると「うーん……」ってなっちゃう。
小説版を読んでの感想は、音楽を知らない人間が音楽って素晴らしいな、僕もピアノ習いたい! って思える作品でしたが、映画版を観ての感想は、音楽ってキツイんだな、ピアノは絶対習いたくないって思いました。
以下ネタバレ感想。
ドラマの山場が邪魔
蜜蜂と遠雷には、4人の主人公が登場するのですが、映画では英伝亜夜にフォーカスが当たっています。2時間に収めるために、そこに焦点を当てる選択は間違っていないと思います。
しかし、彼女がピアノが弾けなくなった理由、そして再挑戦しようとするきっかけなどの理由が、全然描けていません。
映画の中では、若くして天才と称されるも、母を亡くしてしまったことで、舞台のプレッシャーからただ逃げ出してしまった、音楽が嫌いになってしまったという感じなのですが、小説版はピアノを弾くモチベーションは、母に聴かせるためで、表舞台から去ってしまっても、彼女は天才のままなんですよね。
そんな人がこのまま人知れず埋もれるなんてもったいない! と映画には出てこない大学学長、その娘が発破をかけて、亜夜本人は気負いなんて皆無、義理でコンクールに出場するというのが本来のシナリオです。
映画では、かつての天才少女が未練がましくコンテストに登場、コンテスト中も浮き沈みします。
小説版の天才たちが共に影響しあい、素晴らしい音楽をどんどん奏でていく、無敵のサクセスストーリーという感じは全然しません。
ドラマ的な山場を作ろうとして、偏屈そうな指揮者などを登場させますが、個人的にはめっちゃ邪魔でした。
小説では描かれなかった亜夜のコンクールラストステージ。これは嬉しい反面、描き方が俗物的でした。彼女は、自分のピアノの出来よりも、カムバックしてきたことに安堵の笑みを浮かべます。
これで結果がよければ、映画としては辻褄があいます。しかし、コンテストの順位は、同名タイトルだからと体裁を取り作ったように原作と一緒の2位でした。
うーん? この子は天才なのかな?
マイノリティとしてのマサルが描かれていない、ゆえに亜夜とのロマンス要素も微妙
小説の中で、最初はいけ好かないやつと思っていたけど、凄い良いキャラクターをしていたマサル。
彼は、母親が日系二世で、クオーターなんです。小学生のころ、自分のルーツとなる日本で暮らし、学校でひどいイジメに合う。日本は礼節の国だ、と故郷に幻想を抱いていた母親とマサルは幻滅してしまいます。そんな時に出会ったのがピアノと亜夜でした。
そんな彼が、再び日本の地を踏むと、今度は引っくり返したように、甘いルックスとピアノの腕で喝采を浴びる。
淡い恋心を抱いていた亜夜との再会……。ふらふらと移ろう世間とは違い、彼女は昔のまま。
そんな背景は、まーったく描かれません!!
上手く行かなかった演奏も亜夜の助けで解決。
だけど、コンテスト1位。
なんで??
劇薬と称された天才、風間塵……映画ではただのマスコット
あまりに規格外の才能ゆえに、コンクールの審査員ですら評価に右往左往してしまう、というトリックスターでもある風間塵ですが、映画ではあまり存在感はありません。役者の無垢な少年の演技は良かったですが、可愛いマスコットに近い。
音が鳴らない玩具のピアノで練習するという映画オリジナルの設定は、最初は良く感じたんですけど、なんか無理がある。今の時代、特に日本ならどこでも弾けるし、小説でピアノでやっても痛いというトリビアを知った今じゃ、あの玩具じゃグリッサンドはできない。
音楽界が権威的になりすぎて、新しい才能を正しく評価できないという批判的、啓蒙的な視点が欠けてしまっています。邪推すると、おそらく映画でオーケストラなど本職の音楽家の協力が必要でしたので、あまり過激な内容はできなかった……いかにも日本人的な忖度があったんじゃないでしょうか。
小説にあったみたいに、会釈もせずにだーっとピアノに座って、最初の1音から規格外の存在感を出す……みたいな感じではありませんでした。
小説では風間の演奏を効いて、ただでさえ天才の亜夜がさらに覚醒していく……、演奏家としての自分に自覚していく、という感じでしたが、映画では、風間の演奏を聞かずとも、亜夜は地下の駐車場で妄想して勝手に復活し、風間も帰ってきた亜夜の顔を見ただけで復活を確信、自分と比類できる才能であると、今は亡き師匠のホフマンに「みつけたよ……」と呟きます。
お前、ピアニストだろ、ニュータイプかよ!!!
亜夜と二人で演奏するシーンは、ちょっとアブノーマルな匂いがして良かったけど……。
後半から空気、高島明石
メインの4人の中で、異彩を放つ存在である明石。
二次で落ちてしまうところの演技が良かっただけに、その後存在感が完全に無くなってしまうのが残念。
どうして亜夜と映画の冒頭付近で再会してしまうのか。
小説の終盤あたりで、「実は昔からファンで……」「あなたの演奏好きです」で、二人して泣きあうシーンはめちゃくちゃ良かったですよね!
評論家の評価で音楽の良し悪しが決まるわけではない、ということを象徴している、まさに暮らしの中の音楽があり得ると思えるシーンだったのに。
普段は良いやつなのに、コンテストの中で余裕を失ってしまう感じも、あんまり描けてませんでした。昔はピアノが弾けるってだけでモテまくっていたのに、大人になったら、暗にピアニストなんて儲からないわよね、と医者だか社長だかの奥さんに納まった妻の恋敵のエピソードとか、良かったのにな。
落選した彼が、春と修羅で賞を受賞するくだりも端折られてしまって残念。小説読んでない人にとっては、彼の存在意味がわからなかったかもとすら危惧してしまいます。
原作で魅力的だった審査員たちの背景の描き方も薄い
国際コンクールということで、審査員は英語でやりとりします。リアリティ優先した結果だと思いますが、そのせいで外国人の役者に設定をキチンと伝えていないように感じました。
特にマサルの師匠は、公式にはホフマンの弟子とは言えないため、正式な弟子の塵には複雑な思いを抱えています。
しかし、映画の彼は能天気そのもの。風間塵に添えられたホフマンの推薦状を、得意げに読み上げる始末。
コンテスト中に盗み食いしたり、おしゃべりしたり……この人達は本当に審査する気あるのかな。
「風間塵を劇薬と言った先生の真意がわかったわ……」
嘘ですね!
もうちょっとしっかりピアノを聴きたい
実際のところ、音楽の素人に音楽の凄さを映画で伝えるのは難しいのだと思います。映画のBECKでは、コユキのボーカルは無音だったそうですけど、音が出せない小説や漫画のほうが、むしろ凄まじい音楽を想像して補うことができます。
映画では、音楽的知識のない人に、その音楽のスゴさを伝えるため、演奏中に解説させたり、回想シーンを入れるという手段がとられていました。
確かにその方法しかないと思うんですけど、もう少ししっかり聞かせて欲しかったです。
もう一つの手段は、見るからに難しい運指で魅せるという方法。特にこの方法は後半に顕著でした。これも有効なんですが、結局は凄い音楽って技術なの? と興ざめさせてしまう結果になってしまいます。誰でも弾けるような簡単な曲、なのに聴いたこともない特別な音、深い世界を感じる……そんな演奏は幻想なのでしょうか?
酷評になってしまったのですが、悪い映画ではなかったですよ……。